和歌山県の那賀郡粉河鍛冶町で『粉河鐘』(こかわがね)と称された質の良い「鳴り物仏具」(お遍路さんが手に持って打ち鳴らす「鈴鉦」や、お仏壇の前で打ち鳴らす「おりん」など、鳴らす仏具のこと)を鋳造する職人が先祖です。
「粉河鋳工史」という資料には
『粉河の鋳物師で最も名の知られているのは蜂屋と福井の両家である。蜂屋はその祖源時勝が奈良東大寺の大仏を鋳たと伝えており、4代孫俊勝が高野山草創の頃より粉河に移住すと云われ、また福井の元祖は弘法大師請来の仏器を粉河にて鋳たと伝えている(紀州国名所図絵)。この両家が弘仁(810〜824年)の頃より粉河に住していたと想像しえる。その後漸次増加して盛期には4〜50軒にのぼり、鍛冶町と云う町名もできたほど、粉河鋳物として盛んに産出したようである。しかし幕末にかけて次第に衰退し天保時代(1831〜1845年)には9軒、明治には5軒、昭和初期には唯一、「中田清兵衛元清」が残っている』と記載されており、仏具等の鋳造を行う工房の銘として代々「清兵衛」の名を襲名してまいりました。
記録にのこる「清兵衛」の銘は文政年間(1818〜1831年)に確認することができます。
その後も明治より昭和にかけて、西国三十三ヵ所観音霊場の第三番札所、粉河寺の門前で、『粉河鐘』を製造し、参拝者に販売もしておりました。昭和7年には東京へ進出、仏壇・仏具を扱う総合商社として文京区千駄木に出店、さらに台東区東上野に本社ビルを建設し今に至ります。
現在では、上野を拠点に関東地方全般で、仏壇・仏具や神具の卸・小売業、寺院仏具の販売をする一方、古い仏像・仏具や文化財の修復事業を行ってきました。その他にも、花祭り(お釈迦様の誕生日を祝う仏教行事)用品の企画、開発、販売も行うなど積極的な事業展開を行っております。
↑左の写真は明治44年頃の粉河中町中田仏具店、右の写真は昭和期の粉河寺門前の粉河鐘大門前店です。
↑こちらが当店オリジナルのおりん粉河鐘です。おりんの底には粉河鐘の刻印があります。澄んだ音色の中に太い力強さを聴きとることができます。右側の写真は粉河火立。共に粉河鐘の伝統を受け継いでおります。